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01_良識ある国民の見本となったSMAP的存在の不在

川崎登戸殺傷事件、相次ぐ高齢ドライバーによる悲惨な事故、有名人の薬物事件などのニュースは、人々の怒りを買い悲しみをさそう。そしてネット上の書き込みに留まらず、日常生活の会話でも「一人で死ねばいいのに」「老人はじっとしてろ」「薬物依存者には近づくな」などといった一方のみからの意見の表出が横行するようになった。確かに犯罪者は罪を犯したわけだから、法律に則って罪を償ってしかるべきだ。いま問題なのは「罪も憎むが人も憎む」という点にあるのではないか。 
 わたしがこの極端な世間の反応に違和感を感じ、放っておけないのには理由がある。二児の子を育てる親として、これらの反応による子どもへの影響があまりにも大きくなってきているからだ。 
 
 凶悪な事件や悲惨な事故、芸能人の不祥事などのニュースに対する悪者探し、叩き、極端な決めつけは「良識ある大人の意見」といった立て前をかなぐり捨て、感情の赴くままストレス発散のように投げかけられているように感じる。さらに問題なのは、良い時はいっせいに持ち上げて、不祥事があれば突き落とす、という子どものイジメのような風潮だ。 
 なぜ、ここまで歯に衣着せぬ発言をすることが、正義ぶった価値観の押しつけとして支持されやすくなったのだろう。「○○○ファースト」といった自国の利益を常に最優先する世界的な政治経済の流れはもちろんあるだろうが、我々が本来持っている、他者への配慮や思いやり、奥ゆかしさはどこにいってしまったのだろう。それほど、国民の生活は困窮し心が荒んでしまっているのだろうか。 
 思うに、誰もが常に自分の意見を持ち、未来の子どもたちのことを考え、社会をよりよくするための発言や行動をできるわけではない。他者の意見に影響されながら「空気」のムーブメントに乗って、自分たちさえ良ければそれが一番だという本音を隠さずに話す人を支持してしまう空気に徐々に変わっていったように思う。川崎登戸殺傷事件を受け松本人志氏は「人間が生まれてくる中で、どうしても不良品というのは何万個に1個、 絶対に、これはしょうがないと思う」と発言し物議を醸した。より過激な発言をして国民の支持を得るタレントが存在し、悪人を憎んで何が悪い、と勝手な正義を振りかざしてもいる。 
 
 「良識ある大人の意見」が消えてしまった背後に、老若男女がある一定の評価をして国民の見本となっていた「SMAP」の不在が影響しているのではないか。才能に特化したスポーツ選手とも異なり、政治や宗教とも一線を置いた、等身大の見本として、彼らは存在していたように思う。言葉の重みを知り、誰かを傷つけるような発言にはとても慎重で、明らかな弱者を助ける立場を貫いていたように思う。もちろん、それが彼らの意思ではなくイメージ作戦だったとしても、実際に国民の多くが「良識」を彼らに見ていたのは事実だ。 
 その彼らが、一転して思わぬ解散劇を演じ、はてには公開処刑とまで揶揄された番組内での謝罪。そこに事務所=強者から、個人=弱者への「イジメの構図」を目にすることとなった。未だ解散理由も説明されぬまま、ただ残ったのは不条理感。「世界にひとつだけの花」の歌詞に共感した人々の思いは「ダメな花はいなくなれ」に変わっていってしまった。 
 
 子どもの「LINEイジメ」が問題となっている。大人社会でさえも言葉を選ばない極端な表現で追い詰めるさまを、イジメに加担している子どもが見れば、自分の残酷な言葉も正当化された気分になってしまいかねない。行く行くは弱者を見捨てる世の中にだってなりかねない。 
 ネットに飛び交う価値観のおしつけ、これを目にするいまの子どもたちは、どんな未来を想像するのだろう。 
 
 ネット上のコメントが国民の総意だとは言わないが、誰しも悪意に満ちた気持ちになることはあって、「それを言ったらおしまいだ」的なことを考えること自体は否定しない。ただ、飲み屋でごく親しい人を相手に過激な話をする程度だった時代から、子どもも目にするネットへの書き込みやワイドショーのコメンテーターの言葉に、よくぞ言ってくれたとすっきりしている大人が、この先の未来に待ち受けている危機を理解できているのだろうか。 
 優しく思いやりがあり弱いものいじめをしない、他人に迷惑をかけない、そんな子どもになってほしいと願う大人たちが、真逆のことを自分だけの価値観で正義ぶることの怖さ。 
 
 もし、いまも国民的グループSMAPが存続し続けていたならば、良識のある態度を毅然と見せ続けてくれたはずだ。 

(マグちん)