『グリフォンズ・ガーデン』

『グリフォンズ・ガーデン』(早瀬耕・著、ハヤカワ文庫)
ぼくの創造した《世界》が、実際にはどこに存在しているのか、という質問に答えるならば、それは、どこにも確固として存在しない。《世界》は、時間の経過とともにDWSの中を情報が流れていく系譜だ。それを静的に捉えることはできない。
《世界》は、「もの」ではなく、系譜という「ものがたり」なのだ。
(p.94)
『グリフォンズ・ガーデン』(早瀬耕・著、ハヤカワ文庫)
ぼくの創造した《世界》が、実際にはどこに存在しているのか、という質問に答えるならば、それは、どこにも確固として存在しない。《世界》は、時間の経過とともにDWSの中を情報が流れていく系譜だ。それを静的に捉えることはできない。
《世界》は、「もの」ではなく、系譜という「ものがたり」なのだ。
(p.94)
『蘭学事始』
(杉田玄白・著、片桐一男・全訳注、講談社学術文庫)
これまでの腑分けというのは、このような人にまかせて、その人がそれぞれの部分を指して、肺であると教えたり、これは肝臓である、腎臓であると切り分けてしめしていたのものであった。それを見に行った人びとは、ただそれを見ただけで帰って、
「われわれはじかに内臓を見きわめてきた」などといっていたまでのことであったという。もともと内臓にその名称が書きしるしてあるわけではないから、腑分けするひとが指し示すのをみて、わかったということで、それがこのころまでのならわしであったということである。
(……中略……)
老人がまたいうには、
「今まで腑分けのたびに、見学の医師のかたがたにこれらの内臓を指し示してきたのであるが、だれ一人として、それは何、これは何といって、疑問にされたおかたもなかった」
といった。
(pp.39−40)