カテゴリー: 連載コラム

ファウンデーション

アイザック・アシモフ/ハヤカワ文庫

 もとのオフィスに戻ると、マロウは考えながらいった。「それで、これらの原子炉はすべて、あなたがたの管理下にあるのですか?」
「ひとつ残らずそうだ」技官は自己満足以上の感情をこめていった。
「そして、あなたがたがこれらを運転し、正常に保っている?」
「そのとおり!」
「では、もし故障したら?」
 技官は憤慨したように首を振った。「故障しない。けっして故障することはない。永遠に使えるように作られている」
「永遠といえば、ずいぶん長い時間です。万一――」
「無意味な場合を想定することは科学的でない」
「わかりました。もし、わたしが枢要部を爆破して吹っ飛ばしてしまったら? もし、これられの機械が原子力攻撃に対して、弱点があったら? もし、わたしがもっとも重要な連結部を溶接してしまったり、クォーツのD=チューブは粉砕してしまったら?」
「その場合には」技官は激昂して怒鳴った。「おまえは殺される」
「ええ、それは分かっています」マロウも怒鳴っていた。「しかし、原子炉はどうなります? あなたがたは修理できますか?」
(pp.307−308)

私が殺した少女

原尞/ハヤカワ文庫

「人間のすることはすべて間違っていると考えるほうがいい。すべて間違っているが、せめて恕される間違いを選ぼうとする努力はあっていい」
「そこが、あなたと私との違いだ。私には誇りというものがある。家族を守っているという誇りだ。」
「私も誇りの話をしていたつもりだ。家族を守ると言うが、慶彦君や奥さんを一番苦しめているのは、あなたが知恵と称している”虚偽”だし、つまりはあなた自身ではないのですか」
(p.420)

デッドライン

千葉雅也/新潮社

 それは、動物になることと女性になることはどちらが重要か、という問題である。
『千のプラトー』の第十章は、全体としては動物になることを言祝いでいるのだが、その一方で、あらゆる生成変化はまず女性になることを通過する、と言われたり、また、動物への生成変化は途中段階にすぎない、と言われたりする。
 僕は、動物への生成変化をテーマに掲げながら、むしろ女性というあり方に引っかかっていた。
「女性になりたいわけじゃない」
 と、僕はカムアウトするたびに説明していた。知子にもそう言ったと思う。
 僕は、男性をウケの立場から欲望するが、それは性同一性障害やトランスジェンダーとは別のことだ。僕は、男として男を欲望し、男に挿入される。
 僕は、自分には欠けている「普通の男性性」に憧れていた。おそらくはその欠如感が、僕を動物というテーマへと導いている。動物になることを問う、それは僕にとっては、男とは何かを問うことなのだ。
 動物になること、それは、男になることなのだ。
(『群像』2019年9月号、pp.58−59)

奈落

古市憲寿/新潮社

「歌ってどうやって始まったのかな」
「言葉が歌になったんじゃなくて、歌が言葉になったらしいよ」
 そんな何気ない会話から、いつものように歌について私たちは話し始めた。
 最初の言葉はきっと、単純で整然としたものではなく、歌うような情熱的なものだったのではないか。そんな昔の思想家の予言を裏付けるように、歌が何かの文法を持っていて、それが進化して言葉になった可能性について鳥やクジラの研究者たちが真面目に議論しているのだという。
 ということは、かつて歌うことしかできなかった人類がいたのだろうか。狩猟の時のかけ声も、愛する人への求愛も、恋敵との喧嘩も、子どもをあやすのも、その全てを歌によっていた人々がいたのだろうか。口笛や鼻歌、時には合唱を駆使して互いの思いを伝える。まるでミュージカルの世界のような、歌の楽園があったのだろうか。
 しかし彼らは淘汰され、もしくは進化して、話すことのできる人類が誕生した。おそらく言葉は人々を豊かにしたと同時に、暴力的にもしたのだろう。
 言葉は協力体制を築き、集団を作り上げるのに向いている。そして言葉は、いつだって未来を目指そうとする。
 人々に好まれる歌は、何十回、何百回、何千回と繰り返し唱和される。だから場所や集団に対する帰属意識を醸成するのに歌は向いている、だけどその分、歌は人々をひとところに留まらせようとする。
 きっと歌う人類はこの地球の片隅で、ひっそりと生きていたのだろう。そしてひっそりと次の人類にバトンを渡し、消えていったのだろう。
(pp.102−103)

モリアーティ

アンソニー・ホロヴィッツ、駒月雅子・訳/角川文庫

 アセルニー・ジョーンズが銃を抜いた。規則違反にもかかわらず武器を携行していたとは。公使館にいるあいだもずっとポケットに入っていたにちがいない。
 私は自分の銃を抜いた。ジョーンズは私を見つめた。ショックと狼狽のあとに、あきらめに似た感情が彼の目に浮かんだ。
「すまないな」私はそう言って……(以下13文字を伏す)
(p.379)

心にとって時間とは何か

青山拓央/講談社現代新書

 前節で見た「デッサン画」の議論をふまえて、私たちは発想を転換すべきだろう。五分前創造仮説とは、五分前よりも過去の世界について何も知らないかもしれないと人々を脅かすものである以前に、知っている通り(あるいは、ほとんど知っている通り)の過去がこの五分間は確実に在ったことを保証してくれるものなのだ、と。
 たとえ五分間であれ、いま在る記憶や痕跡と過去との繋がりが保証されるなら、それは僥倖と言ってよい。現実の生活において、そのような保証はけっしてなされない。私は眼前のデッサン画(輪郭と空白からなる過去の内容の像)にすがりつくようにして過去への推測を行なうが、それは、このデッサン画の正しさが保証されているからというより、それしかデッサン画がないからである。このデッサン画から出発し、その整合性に留意して、過去についての諸信念を取捨することしか私にはできない。たとえ、他人の話を聞いたり、本を読んだりした場合ですら。
(…中略…)
このとき、五分前よりも過去の世界に関して、私たちの知る歴史がなかったかもしれないのが不満な人は、いま述べた僥倖の本当の有り難みを分かっていない。枯れ木に花咲くより生木に花咲くを驚け、という言葉があるが、在ったと思う通りに過去が在ったことは、それがたとえ五分間であれ、まさに驚嘆すべきことであり、そして五分前創造仮説では、そのことが保証(!)されている。もちろん、これは設定による保証であり、現実の人間にそんな保証はできないが、だからこそ、これは僥倖なのだ。
(pp.94−95)

ヒッキーヒッキーシェイク

 音楽にまつわる情報を得ようとしてインターネット・ウェブをさまよってみて、目につくのは有名人に対する罵詈雑言ばかりだった。ここは学校の椅子の上とどう違うのだろう? 生徒たちのからかい合い、それらを取りまとめたような教師の世間に対する毒づき。それでいて誰も、自分の実力を堂々と披露したりはしない。本当に速く走れるなら、それを活かして獲物を摑まえて見せればいい。英語の構文に精通しているのなら、それを駆使した論文なり詩なりを書けばいい。芸能人を不細工だと思うなら、その隣に立って自慢の美貌を披露すればいい。こんな場所に僕はいたくないと、ディスプレイ上の世界に対してもまた感じた。
(p.142)

01_良識ある国民の見本となったSMAP的存在の不在

川崎登戸殺傷事件、相次ぐ高齢ドライバーによる悲惨な事故、有名人の薬物事件などのニュースは、人々の怒りを買い悲しみをさそう。そしてネット上の書き込みに留まらず、日常生活の会話でも「一人で死ねばいいのに」「老人はじっとしてろ」「薬物依存者には近づくな」などといった一方のみからの意見の表出が横行するようになった。確かに犯罪者は罪を犯したわけだから、法律に則って罪を償ってしかるべきだ。いま問題なのは「罪も憎むが人も憎む」という点にあるのではないか。 
 わたしがこの極端な世間の反応に違和感を感じ、放っておけないのには理由がある。二児の子を育てる親として、これらの反応による子どもへの影響があまりにも大きくなってきているからだ。 
 
 凶悪な事件や悲惨な事故、芸能人の不祥事などのニュースに対する悪者探し、叩き、極端な決めつけは「良識ある大人の意見」といった立て前をかなぐり捨て、感情の赴くままストレス発散のように投げかけられているように感じる。さらに問題なのは、良い時はいっせいに持ち上げて、不祥事があれば突き落とす、という子どものイジメのような風潮だ。 
 なぜ、ここまで歯に衣着せぬ発言をすることが、正義ぶった価値観の押しつけとして支持されやすくなったのだろう。「○○○ファースト」といった自国の利益を常に最優先する世界的な政治経済の流れはもちろんあるだろうが、我々が本来持っている、他者への配慮や思いやり、奥ゆかしさはどこにいってしまったのだろう。それほど、国民の生活は困窮し心が荒んでしまっているのだろうか。 
 思うに、誰もが常に自分の意見を持ち、未来の子どもたちのことを考え、社会をよりよくするための発言や行動をできるわけではない。他者の意見に影響されながら「空気」のムーブメントに乗って、自分たちさえ良ければそれが一番だという本音を隠さずに話す人を支持してしまう空気に徐々に変わっていったように思う。川崎登戸殺傷事件を受け松本人志氏は「人間が生まれてくる中で、どうしても不良品というのは何万個に1個、 絶対に、これはしょうがないと思う」と発言し物議を醸した。より過激な発言をして国民の支持を得るタレントが存在し、悪人を憎んで何が悪い、と勝手な正義を振りかざしてもいる。 
 
 「良識ある大人の意見」が消えてしまった背後に、老若男女がある一定の評価をして国民の見本となっていた「SMAP」の不在が影響しているのではないか。才能に特化したスポーツ選手とも異なり、政治や宗教とも一線を置いた、等身大の見本として、彼らは存在していたように思う。言葉の重みを知り、誰かを傷つけるような発言にはとても慎重で、明らかな弱者を助ける立場を貫いていたように思う。もちろん、それが彼らの意思ではなくイメージ作戦だったとしても、実際に国民の多くが「良識」を彼らに見ていたのは事実だ。 
 その彼らが、一転して思わぬ解散劇を演じ、はてには公開処刑とまで揶揄された番組内での謝罪。そこに事務所=強者から、個人=弱者への「イジメの構図」を目にすることとなった。未だ解散理由も説明されぬまま、ただ残ったのは不条理感。「世界にひとつだけの花」の歌詞に共感した人々の思いは「ダメな花はいなくなれ」に変わっていってしまった。 
 
 子どもの「LINEイジメ」が問題となっている。大人社会でさえも言葉を選ばない極端な表現で追い詰めるさまを、イジメに加担している子どもが見れば、自分の残酷な言葉も正当化された気分になってしまいかねない。行く行くは弱者を見捨てる世の中にだってなりかねない。 
 ネットに飛び交う価値観のおしつけ、これを目にするいまの子どもたちは、どんな未来を想像するのだろう。 
 
 ネット上のコメントが国民の総意だとは言わないが、誰しも悪意に満ちた気持ちになることはあって、「それを言ったらおしまいだ」的なことを考えること自体は否定しない。ただ、飲み屋でごく親しい人を相手に過激な話をする程度だった時代から、子どもも目にするネットへの書き込みやワイドショーのコメンテーターの言葉に、よくぞ言ってくれたとすっきりしている大人が、この先の未来に待ち受けている危機を理解できているのだろうか。 
 優しく思いやりがあり弱いものいじめをしない、他人に迷惑をかけない、そんな子どもになってほしいと願う大人たちが、真逆のことを自分だけの価値観で正義ぶることの怖さ。 
 
 もし、いまも国民的グループSMAPが存続し続けていたならば、良識のある態度を毅然と見せ続けてくれたはずだ。 

(マグちん) 

〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー

 その際、私は家族の経験が多元的であるということが手がかりになると考えている。ダイは「ケアを提供しない」母親が「気遣ってくれていること」に着目し、同居に値する「家族であること」を成し遂げていた。このダイの事例は、家族の成員がケアを提供していなくても、当事者たちが「家族であること」を成し遂げる可能性があることを示している。松木洋人は、子育て支援をおこなう者が、「子どもけのケア提供は引き受けるが「親であること」は引き受けないという実践」をしていることを実証的に明らかにし、そのことが、家族にとって、子どもへのケア提供は外部化するが「親であること」は放棄しないという実践を可能にしていると指摘した。
(p.231)

「みんな一緒」という考えはやめたほうが日本の将来のためです/西郷孝彦ロング・インタビュー

西郷孝彦は、世田谷区立桜丘中学校校長。桜丘中学校のウェブサイトを眺めるだけでも勉強になります。

西郷 ……僕が勝手にそう思っているだけかもしれないけどジブリ作品にもそんなシーンがありましたよね。「千と千尋の神隠し」で、千尋がカオナシと2人で電車に乗って走っていくところ。あのときに千尋が大人になっていくじゃないですか。最初は子どもだったけど、途中から大人の顔になった。「これ、中学と同じじゃん(笑)」と思って感動しましたよ。だから、中学校って毎日ジブリの映画を見ているようなものなんです。これはお世辞じゃなくて、ジブリの作品ってそういうところありますよね。
(pp.19−20)