奈落

古市憲寿/新潮社

「歌ってどうやって始まったのかな」
「言葉が歌になったんじゃなくて、歌が言葉になったらしいよ」
 そんな何気ない会話から、いつものように歌について私たちは話し始めた。
 最初の言葉はきっと、単純で整然としたものではなく、歌うような情熱的なものだったのではないか。そんな昔の思想家の予言を裏付けるように、歌が何かの文法を持っていて、それが進化して言葉になった可能性について鳥やクジラの研究者たちが真面目に議論しているのだという。
 ということは、かつて歌うことしかできなかった人類がいたのだろうか。狩猟の時のかけ声も、愛する人への求愛も、恋敵との喧嘩も、子どもをあやすのも、その全てを歌によっていた人々がいたのだろうか。口笛や鼻歌、時には合唱を駆使して互いの思いを伝える。まるでミュージカルの世界のような、歌の楽園があったのだろうか。
 しかし彼らは淘汰され、もしくは進化して、話すことのできる人類が誕生した。おそらく言葉は人々を豊かにしたと同時に、暴力的にもしたのだろう。
 言葉は協力体制を築き、集団を作り上げるのに向いている。そして言葉は、いつだって未来を目指そうとする。
 人々に好まれる歌は、何十回、何百回、何千回と繰り返し唱和される。だから場所や集団に対する帰属意識を醸成するのに歌は向いている、だけどその分、歌は人々をひとところに留まらせようとする。
 きっと歌う人類はこの地球の片隅で、ひっそりと生きていたのだろう。そしてひっそりと次の人類にバトンを渡し、消えていったのだろう。
(pp.102−103)

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