月別: 2020年1月

デッドライン

千葉雅也/新潮社

 それは、動物になることと女性になることはどちらが重要か、という問題である。
『千のプラトー』の第十章は、全体としては動物になることを言祝いでいるのだが、その一方で、あらゆる生成変化はまず女性になることを通過する、と言われたり、また、動物への生成変化は途中段階にすぎない、と言われたりする。
 僕は、動物への生成変化をテーマに掲げながら、むしろ女性というあり方に引っかかっていた。
「女性になりたいわけじゃない」
 と、僕はカムアウトするたびに説明していた。知子にもそう言ったと思う。
 僕は、男性をウケの立場から欲望するが、それは性同一性障害やトランスジェンダーとは別のことだ。僕は、男として男を欲望し、男に挿入される。
 僕は、自分には欠けている「普通の男性性」に憧れていた。おそらくはその欠如感が、僕を動物というテーマへと導いている。動物になることを問う、それは僕にとっては、男とは何かを問うことなのだ。
 動物になること、それは、男になることなのだ。
(『群像』2019年9月号、pp.58−59)

奈落

古市憲寿/新潮社

「歌ってどうやって始まったのかな」
「言葉が歌になったんじゃなくて、歌が言葉になったらしいよ」
 そんな何気ない会話から、いつものように歌について私たちは話し始めた。
 最初の言葉はきっと、単純で整然としたものではなく、歌うような情熱的なものだったのではないか。そんな昔の思想家の予言を裏付けるように、歌が何かの文法を持っていて、それが進化して言葉になった可能性について鳥やクジラの研究者たちが真面目に議論しているのだという。
 ということは、かつて歌うことしかできなかった人類がいたのだろうか。狩猟の時のかけ声も、愛する人への求愛も、恋敵との喧嘩も、子どもをあやすのも、その全てを歌によっていた人々がいたのだろうか。口笛や鼻歌、時には合唱を駆使して互いの思いを伝える。まるでミュージカルの世界のような、歌の楽園があったのだろうか。
 しかし彼らは淘汰され、もしくは進化して、話すことのできる人類が誕生した。おそらく言葉は人々を豊かにしたと同時に、暴力的にもしたのだろう。
 言葉は協力体制を築き、集団を作り上げるのに向いている。そして言葉は、いつだって未来を目指そうとする。
 人々に好まれる歌は、何十回、何百回、何千回と繰り返し唱和される。だから場所や集団に対する帰属意識を醸成するのに歌は向いている、だけどその分、歌は人々をひとところに留まらせようとする。
 きっと歌う人類はこの地球の片隅で、ひっそりと生きていたのだろう。そしてひっそりと次の人類にバトンを渡し、消えていったのだろう。
(pp.102−103)

モリアーティ

アンソニー・ホロヴィッツ、駒月雅子・訳/角川文庫

 アセルニー・ジョーンズが銃を抜いた。規則違反にもかかわらず武器を携行していたとは。公使館にいるあいだもずっとポケットに入っていたにちがいない。
 私は自分の銃を抜いた。ジョーンズは私を見つめた。ショックと狼狽のあとに、あきらめに似た感情が彼の目に浮かんだ。
「すまないな」私はそう言って……(以下13文字を伏す)
(p.379)

心にとって時間とは何か

青山拓央/講談社現代新書

 前節で見た「デッサン画」の議論をふまえて、私たちは発想を転換すべきだろう。五分前創造仮説とは、五分前よりも過去の世界について何も知らないかもしれないと人々を脅かすものである以前に、知っている通り(あるいは、ほとんど知っている通り)の過去がこの五分間は確実に在ったことを保証してくれるものなのだ、と。
 たとえ五分間であれ、いま在る記憶や痕跡と過去との繋がりが保証されるなら、それは僥倖と言ってよい。現実の生活において、そのような保証はけっしてなされない。私は眼前のデッサン画(輪郭と空白からなる過去の内容の像)にすがりつくようにして過去への推測を行なうが、それは、このデッサン画の正しさが保証されているからというより、それしかデッサン画がないからである。このデッサン画から出発し、その整合性に留意して、過去についての諸信念を取捨することしか私にはできない。たとえ、他人の話を聞いたり、本を読んだりした場合ですら。
(…中略…)
このとき、五分前よりも過去の世界に関して、私たちの知る歴史がなかったかもしれないのが不満な人は、いま述べた僥倖の本当の有り難みを分かっていない。枯れ木に花咲くより生木に花咲くを驚け、という言葉があるが、在ったと思う通りに過去が在ったことは、それがたとえ五分間であれ、まさに驚嘆すべきことであり、そして五分前創造仮説では、そのことが保証(!)されている。もちろん、これは設定による保証であり、現実の人間にそんな保証はできないが、だからこそ、これは僥倖なのだ。
(pp.94−95)